最近、過去の8ミリフイルムをデジタル化する機会があった。
過去の思い出を軽く振り返りたかった、という気持ちで。
僕の持っていた8ミリカメラはFujica Single-8のZ850という機種。
一応、サウンドフイルムを使用すれば同時録音も可能。レンズもF1.8と明るく、フイルム速度は18コマだけど、1コマ撮影ができたのでクレイアニメなんかも撮影できた。
1980年代はまだカメラ屋さんに8ミリフイルムのカメラが売ってて、このZ850も近所のカメラ屋さんのショーケースにどーんと置かれていたっけか。
さて、1980年代からいわゆるハンディカムコーダー(今の民生ビデオカメラの先駆)が登場し、あっというまに家庭から8ミリフイルムカメラは消えて無くなり、ビデオカメラが主流の時代がやってきたわけだ。
そして気づくと今や民生ビデオカメラも4Kとか言ってるし。
去年、コダックが8ミリフイルムの新しいカメラを発売する、と発表した時、そんな現代にこの8ミリフイルムはどんな意味があるのだろうか? なんて考えたものだ。
でも、そんなに重々しく考えなくても、蘇った過去の映像を見て、ある意味安堵の気持ちを覚えたのが正直なところだ。
フイルム、という表現手段がやっぱり好きだな、と思う。
解像度とかどうでもいいもんね。
そこに映し出されている空気感はフイルムならではだ。
例えば4Kカメラで凄くシャープな映像を撮っても、どうも好きになれない気がする。
おしゃれして、バッチリメイクして登場したけど、本当の自分じゃない。そんな罪悪感みたいなものが解像度の高い映像にはある。
人間の目が捉える情報量は凄いものだろう。4Kとかじゃ効かない気がする。
でも、実際目で見える範囲の情報をすべて人間が記憶しているかというとそうではない。きっと、自分の都合の良いフィルターに掛けて、都合の良い記憶に移し替えているのだ。
そうでないと脳の記憶容量がパンクしてしまう。それに都合の良い記憶はなぜか感動を呼ぶ引き出しになったりもする。不思議なものだ。
8ミリフイルムはそういう「都合の良いフィルター」を表現するには最高のツールである、と、再認識した。
現代でも素晴らしい表現手段になりうる、と思う。
映画などで35ミリフイルムを使用する現場は相当限られてきているし、もしかしたらほんとうになくなってしまう可能性だってある。
でも、8ミリだったら、逆にお手軽フイルムカメラとして生き残る可能性がある。
テクノロジーやコストを超えた表現方法として8ミリフイルムカメラがある。そう考えるとなんかワクワクしている自分がいるのであった。
#8ミリフイルム #Single8