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  • 執筆者の写真dolphinrocket

南方熊楠はここにいる


僕の住んでいる和歌山県南紀にはかつて南方熊楠という粘菌学者が居た。

”南方熊楠は和歌山県に生まれ、東京での学生生活の後に渡米、さらにイギリスに渡って大英博物館にはいる。多くの論文を著し、大学者として名を知られたが、生涯を在野で過ごした。 熊楠の学問大系は博物学、特に植物学を基礎とするが、その学風は、ひとつの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、土蔵や那智山中にこもっていそしんだ研究からは、曼荼羅にもなぞらえられる知識の網が生まれた。 1892年(明治25年)にはイギリスに滞在時に、ロンドンの天文学会の懸賞論文に1位で入選した。大英博物館東洋調査部に入り、資料整理に尽くし、人類学・考古学・宗教学などを独学するとともに、世界各地で発見、採集した地衣・菌類に関する記事を、科学雑誌『ネイチャー』などに次々と寄稿した。 帰国後は、和歌山県田辺町(現・田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗・伝説・宗教を広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較文化学(民俗学)を展開した。菌類の研究では新しい種70種を発見し、また自宅の柿の木では新しい属となった粘菌を発見した。民俗学研究では、『人類雑誌』『郷土研究』『太陽』『日本及日本人』などの雑誌に数多くの論文を発表した。”

(ウィキペディアより引用)

水木しげる先生の描く南方熊楠は人間味溢れる素朴な男だった。

研究のため(?)裸で歩き回り、家中に嘔吐し、それをそのまま残して粘菌の研究にしたり那智の原生林の中をほぼ裸で歩き回り、神社合祀に反対して役人と大乱闘・・・。

たしかに普通では無いけど、それぞれきちんとした理屈や熊楠なりの思いがあってやったこと。

その生き様が著者の温かい視点で描かれる。

この本の題名にもなってる猫楠は熊楠に飼われているという設定。熊楠との相性はいいようで熊楠がロンドン時代に猫にはお世話になったなぁ、という話を聞いて、熊楠のことを好きになってしまう。

熊楠の破天荒な行いにもその裏に秘めた自然を守っていくことの思いをきちんと理解し、受け止めている。

猫楠は最後に「自分は人間の幸せを観察している幸福観察猫だ」と語る。

猫楠から見て熊楠はひとりの人間として幸せに見えただろうか?

自分に正直だったがゆえに敵も多かったと思うし、家族関係も必ずしも円満だったとは言えない。

実は僕は住んでいる近所には熊楠に関連する場所があったりする。

その場所を訪れてみたりすると、なんとなくだけど、熊楠の生き様はその時はどう思われたかは、まあ置いておいたとして、実に大きく偉大な影響を残したのではないかと感じるのだ。

例えば上富田にある田中神社。

ここには熊楠が名付けた「オカフジ」というフジの花が咲く。

うっそうと茂る田中神社の森

鳥居の上でひっそりと咲いているオカフジ

このオカフジ、というのは普通のフジとくらべて”総状花序が短く、花びらの旗弁がやや大きく花は淡い白色、翼弁は色が濃いのが特徴”ということらしいが、花素人の僕にはまったく何のことやら・・・。

でも、田中神社のオカフジは普通のフジとくらべてひっそりと咲いているような気がする。

それでいてよく見ていると凛とした佇まいというか、きりっとした力強さというか。そんなものを感じる。

もともとこの地方は「岡」という地名。

それを熊楠が考慮して「オカフジがいい」と言ったらしい。

それが今でも語り継がれて、この田中神社で毎年花を咲かせている。

そして何の縁か僕がそれを撮影してる。

海の方へ目をやれば小さいけど美しい島、神島がある。

田辺湾に浮かぶ小さく美しい島「神島」

”神島は田辺湾の内側にある無人島で、行政区分としては田辺市新庄町3972番地である。古来より島全体を海上鎮護の神として崇め、樹林は神林として、また魚付き林として地元の保護を受け、明治まで人手のほとんど入らない森林を維持し続けた。 この島が貴重な生物の住むところであることは古くから知られており、特にこの島に生育するハカマカズラの種子で作られた数珠は熊野詣での人たちに特別なお守りとして珍重されたことが知られている。明治期には南方熊楠が再三この島に渡り、生物採集を行った。 神社合祀によってこの島の森林が伐採される計画が出たとき、南方はこれに猛烈な反対運動を行い、地元の協力を得ると共に、中央の研究者や役人に働きかけ、法律的な保護がつくこととなった。1929年には昭和天皇がこの地を訪れたことも知られている。”

(ウィキペディアより引用)

漫画「猫楠」ではこの昭和天皇の来訪がクライマックスに近いところで描かれる。

天皇は軍艦で田辺湾に訪れるが、神島に上陸したのち、熊楠が軍艦の中で神島の生物について進講したという。

この出来事は今までどちらかというと周囲から面倒くさい存在と思われていた熊楠の周囲の反応が変わる大きな出来事になったに違いない。

学者とはいえ、英国では暴力事件を起こし、田辺の家ではほぼ裸で菌類の研究。酒飲みで癇癪持ち。自然保護のためとはいえ体を張った反対運動は親族にとってもヒヤヒヤする存在だったと思われる。

そんな熊楠が天皇と神島に渡り、生物についての進講は時間を延長して行われたというではないか。

当時の田辺ではそれそれは大きな「事件」だったに違いない。もちろんいい意味での。

熊楠が見直された瞬間だったと思う。

熊楠本人も相当わかりやすく喜んだに違いない。

神島はもともと熊楠の活動で1930年に県の天然記念物に指定されていたが、天皇が訪れてのち、1935年12月24日、国の天然記念物に指定された。

熊楠の死後、天皇が行幸の際に熊楠を偲んで詠んだものによる歌碑は、白浜番所山の、ちょうど神島を見通せる尾根に建てられている。

それはこんな歌だ。

「雨にけぶる神島を見て、紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」

霧に煙る那智の滝

そして・・・ウチからは少し離れているけど、那智の滝。

この滝のがある山は広大な原生林だ。

和歌山でも植林でない、全く手の入っていない森は少なくなった。

熊楠はこの原生林で粘菌の採取を行ったという。当初は数カ月の調査の予定が結果3年かけてこの森を探索した。

僕はこの森での探索期間が熊楠のその後の和歌山の生活に大きな影響を与えたに違いないと思う。

僕も和歌山に来た時、その自然のすごさに圧倒された。そしてこの滝はその頂点とも言うべき強烈なインパクトを与えてくれた場所だった。

畏敬の念を抱かざるをえない水爆、うっそうと茂る深い森。

古代の人でなくともこの風景というか存在を目の前にして何か不思議なインスピレーションを得ることは間違いない。

僕は無宗教だけど、「自然信仰」という言葉に対する違和感はない。

その土地に住む人々がその場所にある特別な場所で何かを感じるというのはとても自然なことだと思えるからだ。

御神体が「滝」だなんて、素敵じゃないか。

それが岩だったり、巨木だったり、川だったり海だったり。

テクノロジーまみれの現代に住んでいるとそんなことを感じる機会も少ないかもしれないけど、かつての日本に生まれていたら僕も自然を信仰していたと思う。

ふと、朝、目を覚まして外を見ると田辺湾にぽっかりと畑島という小さな無人島が見える。ちょうど神島と同じような島だ。

畑島の右奥には神島があり、さらに奥の方には天神崎が見える。

たまに田中神社の森でガラにもなくフジの花を撮影してみたりする。熊楠が名付けたオカフジだ。よく見たら小さくても可愛い花じゃないか。

そして南紀のバックグラウンドとして深い森、そこに流れる川。黒潮洗う海岸線。

みごとな自然の風景が今でも僕らの目の前に広がっている。

熊楠が目をかけて大切にしてきたものが、多少形は変えているかもしれないけど、今でも僕らの目の前にある。

それはとても貴重で、かけがえのないものに感じるのはきっと人間の中にあるDNAにも自然と調和して生きてゆくという進化よりも大事な本能が刷り込まれているのではないだろうか。

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